本、展覧会、映画、ダンス・演劇のパフォーマンスなど。文学、美術などの芸術、ヨーロッパ、英語に加え、フランス語や中国語、およびその文化にも興味がある。
by cathy_kate


『空飛ぶベラ―マルク・シャガールとの出会い』 ベラ・シャガール著

空飛ぶベラ―マルク・シャガールとの出会い

ベラ シャガール/柏書房

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池田香代子訳、マルク・シャガール挿絵。

日本でも有名な画家マルク・シャガールの妻、ベラの回想録。
ベラはマルクと同じくユダヤ系。資産家の娘で、写真を見るととても美人。
学業成績も優秀で、大学を卒業し、スタニフラフスキー演劇学校にも通った。
50歳前に亡くなり、これは、その直前に書いたもので、死後発見されたらしい。

マルクとベラを描いた演劇『ヴィテブスクの恋人たち』を見て、この本を読みました。

マルクとの出会いや、故郷や故郷の人たちの思い出。
想像力豊かなベラが記した情景は、絵のように色彩豊か。宝物の星空のようにきらきら輝いている。
翻訳で読んでも、なんと美しい文章なのでしょう。
心が洗われるようだ。

まさに隠れた名作です。

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# by cathy_kate | 2018-05-22 22:56 | Comments(0)

『竹内レッスン―ライヴ・アット大阪』 竹内敏晴著

竹内レッスン―ライヴ・アット大阪

竹内 敏晴/春風社

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からだと声を解放し、自分の言葉を人に届けるためのワークショップを開催した著者による記録。
大阪では、どもりのある人など向けにワークショップを開催し、公開講座や公演を行ったらしい。
参加者の話も多く収録されている。
著者も書いているように、個々のエピソードから伝わる力は強烈だ。

p. 63
<「わかる」ということと「ことばをはなす」ということの深い亀裂。この二つを同じことと混同している現代文明の「思い込み」>

p. 141
<知識の集積や気配りの敏感さ、そういう意識の「寄せ集め」が、「わたし」なのだろうか。身体感覚を呼びさまされたと言っても、それも意識の言語化・情報化の積み重ねなのではないだろうか。>

p. 231
<ほんとになにを言いたいのかをはっきりことばにしなければ、対話は成り立たないだろう。わたしは日本における日本語の問題として「察しあう」という姿勢を変えてゆきたいと願っている>

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# by cathy_kate | 2018-05-22 21:45 | 第一幕 本 | Comments(0)

『生きることのレッスン―内発するからだ、目覚めるいのち』 竹内敏晴著

生きることのレッスン 内発するからだ、目覚めるいのち

竹内 敏晴/トランスビュー

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第1章は、著者が他の本でも書いている、聴覚障がいや戦争をめぐる自分の体験などについて。
第2章と第3章は、インタビュー形式で、2000年代の若者のからだやこころなどについて語る。

p. 61
<精神医学の中井久夫さんが、健常者のことを、「自分の矛盾を人に押しつけることで、自分が健全であることを保つ人々」と言っていますが、私にもそれがよくわかる気がします。四十歳過ぎて、どうやら人並みに話せるようになったときにはわからなかったけれど、十年ほど経つと、人のいうことなんて八割方が嘘じゃないか、コミュニケーションなんて言うけれど、そのほとんどが、他人に対する防衛と攻撃じゃないかと思いました。>

p. 107-p. 108
(モダンダンスの基礎レッスンを見たときのことについて)<例えば手を伸ばすときに、他の子は体操のように決められた形にきちんと手を伸ばします。しかし、その子は、自分のなかに何かがあって、例えば水平方向に目が向いて何かに呼びかけるように伸びていく。何というか、一つひとつの動きに、すっと伸びるための、内から動いてくる方向、流れの線が生まれる。簡単にいうとアクションということになりますが、外の基準をなぞるのではなく、意味が生まれるということです。>

p. 118
<内発する欲求、志、それらはすべて、自分を愛することです。人は自分しか愛することはできない。(中略)例えばその人が好きだから愛するのではなく、他人そのものとして尊重し愛することが、ほんとうにできるか。>

p. 145
<いまは、目標や目的によって、皆をある方向に駆り立てていくことが、きわめて強力に成り立っていて、それ以外に方法というものがないようになっています。目標を立て、それに至るプロセスを階段状に設定し、それが正確に達成できたかどうかを評価する。>

p. 175
<人は前だけで存在しているのではない。前と後ろ、顔と背中、表と裏、意識と無意識、光と影、そしてエゴ(自我)とセルフ(自己)。わたしが他人に見せようとしている姿だけを、他人は見てはいない。前もあり、後ろもある、一つの存在、一つの「からだ」として「わたし」を見るのです。まるごとの「からだ」全体として「わたし」は「ある」。>

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# by cathy_kate | 2018-05-10 19:24 | 第一幕 本 | Comments(0)

踊るということ

ダンスにも本当にいろいろあるみたい。

日常の動作を立脚点にした演劇要素の強いダンス。
コンタクト・インプロビゼーション(即興)。
舞踏(ぶとう)。
日本舞踊。
バレエ。
オイリュトミー。

他にもいろいろ。
「コンテンポラリーダンス」と総称されるものも、本当にさまざま。
その中で同じ「カテゴリー」にされるものでも、さらに、ダンサーや振付家によっていろいろ。

バレエや日本舞踊も、メソッドや流派など、もちろんいろいろ。

自分の体、一緒に踊ろうとする人の体、観客、空間、世界。
その中で踊りが立ち上がってくることのみが共通点か?

少しでも足を踏み入れると、全然できないけれども、はっとする発見や、ぞっとする気付きがある。
心底怖い気付きもある・・・。自分の世界の見方とか、人との関わり方とかについて。

なんかようわからんわ、ってことを試してみるのも面白い。
型のあるものにきちんと向き合おうとするのも興味深い。
できなくても。

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# by cathy_kate | 2018-05-07 19:51 | 第三幕 ダンス | Comments(0)

『劇団態変の世界―身障者の「からだ」だからこそ』 劇団態変 編著

劇団態変の世界~身障者の「からだ」だからこそ

劇団態変/論創社

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1983年に金滿里が立ち上げた劇団態変は、いわゆる「身体障がい」のある役者たちによるダンス公演を行っている。
本書は、その信念などを、ダンサー、役者、学者、作家、パフォーマーなどと金さんとの対談を通して伝える。

パラリンピックの罪も語られているのだが、それこそ、パラリンピックなどの影響で、身体障がいのあるダンサーがテレビ出演することも今日ではある。
でも、劇団態変が始動したのは30年以上前。かなり画期的だっただろうし、私はまだ見たことがないけれど、今でも画期的であり続けているのだろうと想像する。

10年くらい前、コンテンポラリーダンスに関する講座で、海外の身体障がいのあるダンサーの踊りを見て衝撃を受けた。
自分がこれまで見てきた体の動きだけがすべてなのではない、体ではこういう表現も可能なんだ、体の表現は無限大なんだ、というような衝撃。

自分が思っている当たり前は、やっぱり当たり前じゃない。
そう突き付けられたときの、快感、といっていいのか、この言葉が正確なのかは分からないが・・・。
限定された世界はつまらない。可能性を広げていく方が、人生楽しい。

でも、もちろん、「楽しい」というだけでは済まないし、そういうペラペラした感じだけではないような気がするけれど、言葉で表現するのは難しいな・・・。

ダンスを見ているだけでも、自分の体が組み替えられたりする感覚があるときもあるし、体の中をふっと風のようなものが突き抜けていくこともあるし、なにか、交差、交錯が起こるような気もする。

<感情というのは命を大切にする感情であって、自分の命だけでなく人の命も大切にする、形のない命の想いだと思っています。>(p. 44)

肉体も精神も極限状態になって初めていいものができる。だから否定は大事。でも今は無痛社会で、否定をないものとしている。10分かけてしゃがむと足とかが痛くなるから、そんなことはしないで楽な方に体は行きたくなるけど、そうすると踊りはできないから、その苦痛を自分に課す。(p. 68-p. 69)

<障碍者の特権的肉体論なんていうのは幻想です。身体自身の普遍的な可能性ですから。><やはり魂の渇望というものを抱えている人のほうがいいです。><「生きる糧になる芸術」ということを私は思ってるんですが、そのことを本当に実践できなあかんなあと。>(p. 82)

<健常者が障碍者の演出をやることに関しては、暴力的という以前に、あってはいけないと思うんです。でもやってますけどね、世の中では……。>(p. 158)

上記の引用に私がすべて同感というわけではなく、気になった発言を記しました。




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# by cathy_kate | 2018-05-05 11:03 | 第一幕 本 | Comments(0)

『教師のためのからだとことば考』 竹内敏晴著

教師のためのからだとことば考 (ちくま学芸文庫)

竹内 敏晴/筑摩書房

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教師にとってだけでなく、多くの大人にとって、「耳が痛い」話なのではないか。

あの人はこうあるべきで、それができていないから、「直す」機会を与えよう、というのは、上から目線の差別の押し付けである。(p. 087)
人が人を拒絶するのは、相手に傷付けられたから。(p. 153)
"自分の行動は自分が決める、そこに責任が生まれる"(p. 234)
などということが書いてある。

学校教育に関する憂慮や提言は、もっともだと思うし、これらの文章が書かれてから20年くらいたっているのに、現状は大きくは変えられていないだろう。そう思うと、ほとんどホラーの世界だ。
現代ではますます、個性を尊重とか言っておいて、個性どころか人権も無視し、教員が子ども一人一人に向き合う時間や精神の自由はないだろう。そもそも教員が人間として存在することが許されていない、のも、著者が指摘するところ。

教員ではなくても、人を成長させるなどと美辞麗句をかざしながら、人を試すような理不尽な行動を取っていないか? 能力が足りないと思われている人が、能力を発揮することなどできない。
拒絶したり攻撃したりするのは、その人が傷付いているから。そんな歌詞があった気がするが、傷付いたときに拒絶や攻撃でしか自分を守るすべがない人間関係や環境とは、いったい何なのか?
権力を持つ人の言うことに同意できないのに従ってしまい、失敗したときに他人のせいにしてしまう。本当は、他人のせいにしたくないから、自分の意思を貫きたいのに、違うと思っても違うと言えないのは、なぜなのか?

著者が巻末に書いている家族との関係も興味深い。
自分を固持するのでも相手に合わせるのでもない、相手との向き合い方、共存の仕方。
永遠の課題ですね・・・。

英語の関係代名詞の直訳と見せかけて実は英語と語順が違ってしまっている変な日本語表現を著者は批判している。
私、きっとよくそういう日本語書いています。この記事でも・・・。


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# by cathy_kate | 2018-05-01 21:23 | 第一幕 本 | Comments(0)

「プーシキン美術館展―旅するフランス風景画」 東京都美術館

ロシアのプーシキン美術館から、17世紀~20世紀の風景画が来日。

風景画の中に身を置くようにして見ると、当時のフランスなどへ飛んでいける。

社会や芸術の変化を受けた風景画の変遷をたどることができる。

うっとりした気分になりますー。

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# by cathy_kate | 2018-04-19 20:21 | 第二幕 美術 | Comments(0)

『動くことば 動かすことば―ドラマによる対話のレッスン』 竹内敏晴著

動くことば 動かすことば ―ドラマによる対話のレッスン ちくま学芸文庫

竹内 敏晴/筑摩書房

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女性が息づく戯曲をたどり、女たちの声を聞き、彼女たちを立ち上がらせる。
『夕鶴』『アンティゴネー』『人形の家』『三人姉妹』『セチュアンの善人』。

この作品群の中で、舞台で見たことがあるのは、イプセンの『人形の家』。
最後、ノラが丸坊主の全裸で現れ、驚愕した。
でも、あれは、妻や母や娘や女の仮面をはぎ取って一人の個人となったノラの姿そのものだったのね。

どの戯曲も、演出家である著者の上演生中継のような筆致によって、魅力的に光を放つ。

西洋では女が男の気持ちを察したり察してもらおうとしたりという文化はない、という話。
昔、著者が工場で上演したときに、声を出して反応しながら観劇した人たちの話。
印象深いです。

どの戯曲も実際に見てみたくなりました。

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# by cathy_kate | 2018-04-16 23:16 | 第一幕 本 | Comments(0)

国際シンポジウム「世界文学の可能性 日仏翻訳の遠近法」

日仏翻訳、文芸創作をテーマとしたシンポジウム。
全部は聞けなかったのが残念ですが、実り多いプログラムでした。

といっても、理解できないことが多かったですが(笑)。
それにしても、スピーカーによっては、異様に強い眠気に襲われるのはなぜでしょうか?(笑)

いろいろ興味深いことがあったのですが、なかなか消化するのも大変で。
ひとまず、頭の中でかみしめておきます。

そうそうたる方々が登壇し、ミーハー気分も満たされました!

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# by cathy_kate | 2018-04-14 22:44 | 第七幕 混合芸術 | Comments(0)

『パリ、恋人たちの影』フィリップ・ガレル監督

フランス/2015年/73分/モノクロ/デジタル/日本語字幕
監督:フィリップ・ガレル
出演:クロチルド・クロ、スタニスラス・メラール、レナ・ポーガム、ルイ・ガレル(声のみ)
撮影:レナート・ベルタ

夫婦が、それぞれ秘密で恋人を作り、でもお互いばれてしまい・・・。
という、何の変哲もない筋書。

ですが、なんなんでしょうね、モノクロなのですが、異化効果というか、登場人物にまったく感情移入できず、俳優たちを美しく映し出すこともわざと拒んでいるような。

ラストは、平凡なのだけど、はあ?!っていう感じ。
いや、私に理解できないだけなのか・・・?

しょうもないとこあっても好きなんだな、愛は理屈ではない。
というのは、きっとその通り。

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# by cathy_kate | 2018-04-14 22:17 | 第五幕 映画 | Comments(0)

「マーグ画廊と20世紀の画家たち―美術雑誌『デリエール・ル・ミロワール』を中心に」 国立西洋美術館

国立西洋美術館の常設展でのテーマ展示です。
版画素描展示室で開催。

「マーグ画廊」については初めて知りました。
「デリエール・ル・ミロワール」はフランス語で「鏡の裏」という意味。

ピエール・ボナール、アンリ・マティス、ジョルジュ・ブラック、マルク・シャガール、ジョアン・ミロ、ワシリー・カンディンスキー。
そうそうたる画家6人の版画などが展示されている。

カンディンスキーの『小さな世界』シリーズに、恋に落ちてしまった。
どうしてだろう。
こういう世界の見え方、あるよね、と思って。

同美術館の企画展「プラド美術館展」の絵画を見ていて、絵の中にひょこっと自分が入っているような感覚にとらわれ、その気分が続いたままカンディンスキーの絵の世界へ入ってしまった。


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# by cathy_kate | 2018-04-04 20:17 | 第二幕 美術 | Comments(0)

「プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光」 国立西洋美術館

「日本スペイン外交関係樹立150周年記念」の展覧会。

スペインのマドリードにあるプラド美術館は行ったことがある。
今回の企画展のように少数の作品がまとめられているとじっくり見られる。

プラド美術館の収蔵品数からすると少数とはいっても展示としては十分な点数がある。
主題別の章立てで、分かりやすい構成になっている。

名作揃い。
知らない画家でも知らない作品でも質が高く引き付けられる。

この官能性は何だろう?
主題の色っぽさだけでなく、筆触(タッチ)が色っぽい。(色も色っぽい!)

ベラスケス以外の有名どころは、リベーラ、スルバラン、ルーベンス、ヤン・ブリューゲル、グイド・レーニ、ムリーリョ、パチェーコなど。

日本にいながらにしてスペインなどの名画を見られる幸せ。


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# by cathy_kate | 2018-04-04 20:05 | 第二幕 美術 | Comments(0)

シンポジウム「世界文学から見たフランス語圏カリブ海」

国際シンポジウム「世界文学から見たフランス語圏カリブ海―ネグリチュードから群島的思考へ―」

「シンポジウム」は、フランス語では「コロック」というのですね。
2日間にわたって開催。残念ながら1日しか行けませんでした。

「クレオール文学」という言葉を聞いたことはあるのですが、全然知識はなく。
マリーズ・コンデの小説とか読みたくなりました。
翻訳するのが難しいという話もありましたが、それでももっと日本語で出版してほしいな。

文学を中心に、音楽や哲学なども。
とても興味深いのですが、分からないことだらけで、帰宅してから具合が悪くなりました(笑)。
消化しきれなかったのでしょうね・・・。

フランスの植民地だった土地の人々が、フランス語を押し付けられながらも、自分たちの言語を獲得しようともがく結晶としての文学、とでもいうのか・・・。
結晶みたいに固まりになるのではなくて、流動的、絶え間なく動いている感じなのかな。

休み時間に「クレオール語」の朗読をしてくださったのを聞き、初めて耳にする音の響きを体験できた。

ふと、日本の植民地だった韓国や台湾で日本語で創作していた作家や詩人たちのことを思った。

お昼は会場近くのフレンチレストラン(カフェ)で頂きました。壁画など内装がおしゃれ。
平日ランチは900円か1,000円でお得。
お肉、お魚、パスタ、リゾット、丼、カレーから選べる。
全て、スープ、パン、ドリンク、ミニデザート付き。
(丼でもパンが1切れ付いてきた。スープとパンは写真撮ってないけど)
お水の代わりにミントティーが供されるのもすてき。
丼は無料で大盛りにできるというので、してもらっちゃった。
ご飯の上に豚肉の生姜焼きとマリネしたアボガドとレタスが載りマヨネーズが添えてある。
かなり美味。まねして作ってみたい。
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# by cathy_kate | 2018-03-29 02:19 | 第七幕 混合芸術 | Comments(0)

東京アートポイント計画 公開報告会 #5

アーツカウンシル東京がNPOと共に都内の地域で実施してきたアートプロジェクトの報告会。
2017年度はこの「東京アートポイント計画」が始まって5年目のようです。

いろいろな活動があるんだな。
何でもありなんだな。
アートって何だろう。
アートは「役に立つ」のか?
アートと生きることとの関係は?

という、永遠の問いが浮かぶ。

自分でも小さくてもいいから何かやってみれたらいいんだろうなあ。

ネットTAM」とか、情報がたくさんインターネットにあるようなのだが、なかなかチェックできない。
情報の渦に惑わされて溺れそうで、なかなか手が出ないのでした・・・。

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# by cathy_kate | 2018-03-29 01:47 | 第二幕 美術 | Comments(0)

フォーラム「高齢社会における文化芸術の可能性:日本と英国の実践から」ブリティッシュ・カウンシル

高齢化社会であるイギリスと日本の劇場、バレエ団、美術館、音楽ホールなどで行われている、高齢者対象のワークショップなどの実践報告。

高齢者や、認知症、パーキンソン病の人たちを対象に、演劇、ダンス、創作(ライティング)、美術制作、演奏などのレッスンが実施されている。
参加者は、生き生きと表現できる場を見出し、人とつながることができる。
実施機関は、高齢者に自分たちの施設へとアクセスしてもらう機会を創出できる。
実施するアーティストは、表現の幅を広げられる。

医療的な注意をもしなくてはならない。いろんな機関との連携が不可欠。
高齢者や病気を持つ人との尊厳を持った対応の仕方を模索する必要がある。

まだまだ医療従事者から「単なるお遊び」と捉えられることもあるらしいが、「遊び」は大切だと思います。

80歳、90歳になれば、過半数の人が「認知症」になるそうだ。
体も頭も思うようには動かせなくなるでしょう(若くても完全に思い通りとはいかないが)。
それを当たり前のこととして生活できる世界にしていく必要がある。

年を取っても、病気になっても、制限はあるけど、踊れたり、詩を書いたりできるかもしれない。
そういう希望を持てるなら、怖がることはないかもしれない。

人はみんな年を取るし、そうなればある程度「障がい者」になる。
どの人にとっても楽しく住みやすい社会にしたい。
誰にとっても全部「自分ごと」のはずなので、自分が明るい未来を思い描き、実現するためにも。


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# by cathy_kate | 2018-03-22 23:23 | 第七幕 混合芸術 | Comments(0)

「ルドン―秘密の花園/Flore d'Odilon Redon」 三菱一号館美術館

三菱一号館美術館所蔵のオディロン・ルドンの巨大パステル画「グラン・ブーケ(大きな花束)」(1901年)。
ルドンのパトロンだったドムシー男爵の城館の食堂を飾る壁画の一枚だったらしい。
今回の企画展では、一緒に食堂にあったその他の壁画15点がパリのオルセー美術館から来日し、展示されている。

ルドンの画家人生の前半の「黒」を基調とする版画や木版画から、後半のカラフルな絵まで、存分に堪能できる。
展覧会タイトルにあるように、植物や、植物と人間や動物が一緒になったみたいな生き物が描き出されている。
気持ち悪いのかもしれないが、気持ちいいというか。呼び覚まされるこの感覚は何だろう?

自然を描いた絵を一枚見ただけで、どんなによく(じっくりと)世界を「見て」いた画家だったかが分かる。
よくよくよく見つめないと、見抜かないと、あんな絵は描けない。

「ゲラン・ブーケ」はこの美術館で何度か見ているけれど、初めて見たとき、魅入られてしまった。
いつまで見ていても飽きない。なぜかは分からないけど。「命」「生きている」という感じがする絵なのだ。
この絵が東京にあってとても幸せ。この美術館を運営する企業は別に好きじゃないけど、この絵を購入してくれたことに対してだけはありがとう(笑)。

「グラン・ブーケ」が食堂の壁画の一枚だったということはこれまで意識していなかったが、他の壁画たちも見ることができたのは貴重だった。
願わくば、今回揃った壁画を、展示室の一室に、食堂を再現して並べてほしかったけど・・・。食堂の家具とかも含めて、再現してほしかったなあ。

野の花のいけられた花瓶(Flowers in a Vase / Vase de fleurs des champs)」(NGAナショナル・ギャラリー、ワシントン)
首の長い花瓶にいけられた野の花(Wilflowers in a Long Neck Vase / Fleurs des champs dans un vase au long col)」(ニューヨーク近代美術館(MoMA))
この2点の絵もすごくすてきで、のどから手が出るほど欲しい(笑)。
「グラン・ブーケ」と違って小さい作品だから、狭い我が家でも飾れるしさ(笑)。

チケット代は一般1,700円!って高額だけど、その価値はあります。
ちなみに、香川県民は、「ルドン」と「うどん」の関係で、無料らしい(笑)。

展覧会の公式サイトはこちら

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# by cathy_kate | 2018-03-22 21:54 | 第二幕 美術 | Comments(0)

バレエのレッスン

かなり久しぶりにバレエのレッスンを受けた。
入門レベルのクラスだけど四苦八苦。

踊るところまでいかないバーレッスンであっても、イメージを持って動くことが大切。
そんなことにも以前は気が付いていなかった。

頭では分かっても、できるかどうかは別。
体のどこを動かすのか混乱して、できそこないのロボットみたいな動きになってしまう。

難しいけど、バレエの決まった動きに体を馴染ませようと奮闘するのはちょっといい気持ち。

激しい動きはしていないはずなのに、汗びっしょりです。体すっきりです。

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# by cathy_kate | 2018-03-22 21:21 | 幕間 日常 | Comments(0)

『からだ・演劇・教育』 竹内敏晴 著

からだ・演劇・教育 (岩波新書)

竹内 敏晴/岩波書店

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定時制高校の生徒たちが、著者による演劇的ワークショップ(レッスン、授業)や演劇鑑賞や演劇上演を通して、声や体を解放していって、いろんな衝撃を受ける様子を記録した本。

著者は1925年生まれで、2009年に亡くなったらしい。
演出家、「竹内演劇研究所」主宰。

この本を読むだけでも、ご自分のすべてをかけて生徒たちにも演劇にもぶつかっているようなすさまじさを感じた。
子どものころはずっと難聴で話すことに大きな困難があり、十代のころ薬による治療で聴力が回復し、努力して話せるようになった、という生い立ちも影響しているようだ。

また、本書には記述がないが、よく聞く「野口体操」との関わりもあり、取り入れたようです。

1989年出版の本で、1980年代の高校(東京都立南葛飾高校定時制)での授業実践を記録している。
読みやすい文章ですが、日本語自体が現代とは違う趣がある。
途中で高校の教師たちの会議を録音したものの書き起こしが少し出てくるが、話し言葉でこういう日本語がよく出てくるものだなあ、と驚いてしまった。
「この定時制高校には被差別部落出身者や在日朝鮮人、障がいのある人も多く通っていた」などという内容についても、現代では普段自分がなかなかこのようなことを意識できていないせいか、ドキリとする。

現在の演劇ワークショップやダンスワークショップで触れるようなレッスンが、当時、演劇専門では全然ない公立学校で行われていた、なんて知りませんでした。
当たり前だが、世の中には自分の知らないことがたくさんあるなあ・・・。(著者の名前はなんとなく見覚えがあるような気もするが)
学校の授業では、競争心をあおって優劣感か劣等感を植え付ける「体育」なんかじゃなくて、こういうレッスンをやってほしいなあ。

・p. 12
<はじめての授業は「総合表現」という名で、(中略)「他人に話しかけること」のレッスンをやった(中略)。その後体育の授業として、柔道場で、寝ころんだ相手に働きかけて腕や足をゆすっていくと、相手のからだから次第に力がぬけていき、緊張が解けてゆったりし始めるレッスンや、ことばを吟味しながら歌うこと、人間が「立つ」こと「歩く」こととはどういうことかなどの授業を、ほぼ月一回の割合でするようになった。>

こういうレッスンが、当初は選択授業の一つとして始まり、のちに高校の教師たちの要望で、必修クラスになったらしい。

高校の教師が、著者による演劇の授業では、通常の授業では無視しがちな、生徒「一人ひとりを見ている」ということを、著者はしてくれている、と述べる(p. 74)。
でも、授業を受ける生徒の人数が大幅に増えると、研究所のスタッフに手伝ってもらっても、それが難しくなっていくことを著者は感じる(p.175-p. 176)。

こんなに真摯に授業を行い、書きあらわしているのに、あとがきで「私の眼界の狭さ、体験を省察することの浅さが容赦なく現れて来た」(p. 209)と書いていて、びっくりした。
こういう人もいるもんなんだなあ・・・。

生徒の感想文も引用されているが、本全体に、著者の自慢めいたところはみじんもない。
「教える人の罠」みたいなものにはまっているところが感じられなくて、だから生徒たちも飛び込んでいこうと思えたのだろうな。

著者は、感覚的なものと捉えがちなものを言語化する能力に非常に優れていて、分かりやすい。

・p. 128-p. 129
< 演劇を学校教育の科目として採用させようという運動は歴史が古い。
 私は演劇の世界に入った初めのころから学校劇あるいは演劇教育の運動の担い手の教師たちと協力してきたが、戦前から引きつがれてきたこの主張じたいにはあまり乗り気でなかった。今の学校行政のままで演劇を正課科目にとりいれたら、ただオシバイのうまい生徒をつくりだすために教師が駆り立てられる結果になるに決まっている。そんな瑣末なシバイの技術学習をしてタレント養成まがいのことをしてもしかたがない、と私は一貫して考えていた。
 もし演劇およびその基礎訓練が少年および青年にとって意味があるとしたら、話しことばと身動きを含めて、全心身で自己表現することが、かれらの成長をいかに支え、促すか、ということを明確に目指し探ることが核心であろう。その過程で生徒の一人ひとりに起こってくる心理的なぎくしゃくや突然の自己開示やを通じて、自分や相手の、そして役の人物の生きざまに気づくこと――それを「表現の教育」と概括するならば、それは生徒一人ひとりの独自な奥深い魂の底から動き出してくるなにかが、教師との、そして仲間との交わりと共働の中で、どれほど受け止められ、勇気づけられるかにかかっている。>

・p. 133-p. 134
< 演劇は本来祭りと分ち難く発展して来た芸能であり、日常の社会生活秩序を逸脱して、抑圧されていた生のエネルギーを奔放に溢れ出させる場を作り出す。それ故、近代学校教育の目指す科学的思考の訓練と秩序ある市民生活規律の伝承とは反対の志向を持つと言えよう。多くの教育者たちが演劇の猥雑さを敵視したのも故なしとはしない。その意味で演劇は反教育的であり、近代学校に演劇が導入される場合は、無害な遊戯乃至教養主義的補完物としてであって、たとえば体育における無意識や性の抹殺と対応していたと言いうる。
 しかし近年、日本においてはほぼ一九六〇年代から、近代的思考の基幹たる心身二元論への本格的批判と、「こころ」と「からだ」の統一の視点の回復の動きが興り、続いて古代からの演劇的思考の復権が主張されるに至って、全人間的成長を目指す教育と演劇の関係がようやく見直されつつある。(略)
 現代における演劇と教育のより根源的な関係は、学校教育の現場とは、こうした表現活動に限らず、各瞬間になにごとかを表出している子どものからだと、教師のからだの向いあいの場であることを自覚した点にある。管理的な傾向の激化しつつある現代の教育状況を生きる主体としての子どものからだを、教師が全心身で受けとめ、ものや人に対して全身を発動させて働らきかけることのできる場を設定し、そのプロセスの中で、その子がこれまでなしえなかった行為をなし、新たな経験の次元を成り立たせて行くならば、その変貌にこそ生きたドラマはある。>

うーむ、これが30年くらい前に書かれたものだとは信じられん!
その長い時を経て、今の学校教育は変わっているのか? あまり変わっているとも思えない・・・。

このことに限らず、おかしいと分かっているのに、なんで学校教育って変わらないのだろうね?
大学行って会社や役所に入って働き続ける、という一元的な価値観にまだ支配されているから?
教育制度を国が一括して牛耳っているので、小回りがきかず、新しいことを試せない?
でも、子どものときに受ける影響って絶大だからさ。結構な罪だと思うよ。その植え付けや呪縛から逃れるために、どれほどの労力が必要なことか。
現場でそういう圧力に対抗するのはすごいエネルギーが要るだろうな。押しつぶされそうな徒労感もあるだろうな。その中でも努力し続ける人(教師とか)はすごい。
学校教育の枠組みの外で始めるしかないことも多々あるのだろうな。
そんなこんなで、少しずつは変わってきているかな。

上に、学校教育と相いれない演劇、という話を引用したけど、自分の中のぐちゃぐちゃしたものと向き合って発露させる場があった方がいいと思う。
「健全」という言葉も問題あるかもしれないけど、まあ健全に発散させておいた方がいい。
その方が自分や他人を傷付けたりしなくなると思う。
自分と真っすぐ向き合わない人は、他人とも真っすぐ向き合わず、自分か他人か、下手したら両方を、追い込んでしまう。
と、自省も込めて思います。
小説とか読むと、病的なことや犯罪的なことがわんさか詰まっている。あれは、人間の中のそういう面を、芸術的な昇華まで持っていった結果であって、そのおかげで普段の生活では犯罪者にならずに生きていけているのではないかとも思う(笑)。
誰もが小説を書く力(や絵を描く力など)を持っているわけではないから、演劇的ワークショップをやってみるのもいいのではないか。

参考資料として、「竹内敏晴の仕事――からだとことば」。
分かりやすい文章。
書き手が竹内敏晴氏を知ったきっかけは、英語の発音指導をする人が、日本の英語教師が英語を発声する体と声を持っていない、ということで、竹内氏のレッスンを参考にした、ということからだったのだそう。

竹内敏晴氏から学んだ人が、「人間と演劇研究所」を主宰して、ワークショップを開催しているそう。
動画・解説」ページで動画を見ると、あやしい!うさんくさい!とかってつい思っちゃうんですけど(笑)。
でも、その感覚はあながち嘘でもないかも。もちろん、善意をもって行えばいいことだけど、悪用しようとすればできないことはないのかも。実は、魔術とかってこういうことなのかも。
それはともかく、同ページの1987年のテレビ番組の一部という動画は興味深いです。竹内敏晴氏のワークショップ体験記録と体験者の感想。

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# by cathy_kate | 2018-03-14 19:06 | 第一幕 本 | Comments(0)

『ストーリードラマ―教室で使えるドラマ教育実践ガイド―』 デイヴィッド・ブース著

ストーリードラマ―教室で使えるドラマ教育実践ガイド

デイヴィッド ブース/新評論

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2006年発行。原書(英語)は1994年発行。
やや古い本ですが、日本の学校でこのような演劇を取り入れた授業を受けた経験がほぼまったくない身としては、とても興味深い内容でした。

原題は 'Story Drama: Reading, Writing and Roleplaying across the Curriculum' (by David Booth)。
構成や書き方は少々独特で、易しい語り口なのだけれど、最初ちょっと読みづらかった。
でも、慣れてくると、どんどん興味を引かれる本。

内容は、原題に表れているように、学校の授業などで、子どもたちと、物語を基に即興などでドラマ(演劇)を作っていき、自主的に考えたり話し合ったり、登場人物や自分たち自身について考えを深めたり、ドラマから発生したことを書いたりすることで、思考力・共感力・対話力などを深めていくカリキュラムの実践が紹介されている。

著者は、カナダのトロント大学オンタリオ教育研究所に勤め、現役の教師たちが参加する大学院のドラマ教師認定コースで教えたり、ゲスト教師として子どもたちにドラマの授業をしたりした人。
ドラマ教育(演劇教育)やリテラシー教育(読書、作文、詩作教育)をはじめとするアート教育が専門。

「教師の役割」の章で、教師も役を演じることで、子どもと、教師と生徒という関係でいるときとは別の言葉で語り合い、関わることができる、という話がある。
こういうの、大事ですよねえ。教師以外の人にとっても。
人間としての自信がない教師ほど、こういうことするのは苦手かも。

話しながら考える、「探究的な話し方(exploratory talk)」をする機会は、学校ではない(p. 139)と書いてある。
カナダでもそうなのかあ。

カナダのオンタリオ州(トロントの所在地)では「ドラマとダンス」が学校教育に取り入れられているそうですが(カナダ国内でも、州ごとに教育カリキュラムが異なるのでしょうね)、現在でもそうなのかな?
やった方が絶対にいいと思うのだが、この本を読むと、ドラマ教育の可能性を感じられるのと同時に、なぜ日本で今はまだ広まっていないのかが分かる気がする・・・。

ドラマ教育に限らないけど、こういう「創造的」な授業をするには、教師が本当に大変!
時間をかけて内容を事前に準備しつつ、授業では常にその場その場での生の判断、対応が必要となる。
いつもどうなるか予測できずドキドキ!(知識を一方的に伝える授業であっても、毎回、生ものではあるけれど)
その分、熱意をもってこういう授業を楽しんでできれば、教師として、人としての喜びも大きいのでしょうねえ。
ただ、著者は、最初は戸惑っていた演劇未経験の教師たちも、子どもたちの声(発せられる言葉だけでなく)に耳を澄ませ、子どもたちに任せることができると、素晴らしいドラマ教師になる、と書いているけどねえ。うん、そういう先生はいい先生だよね。

「評価」をどういう観点で行うか、という付録が巻末にある。
生徒たちに優劣をつけるのが「評価」だと思っている人たちは、アート教育はせいぜい「おまけ」で十分、と思ってしまうのかもしれない。
しかし、「この登場人物のこのときの気持ちは?―〇〇が正解です」という「国語」の授業と試験に激しい反発を感じていた私としては、いろんな感じ方や考え方がある、というこの本にあるような「読解」の方法に大賛成。

子どものころは、別の場所にいる別の誰かに簡単になれたんだよなあ。
ごっこ遊びや人形遊びは全部そうだった。
手塚治虫の漫画『火の鳥』の未来編で、アメーバ状の宇宙の生物(?)が出てきたと思うんだけど、その生物は、人間に、いろんな夢を見させてくれる。そのおかげで、想像の世界でいくらでも遊べる。
これからの時代には、バーチャルリアリティーとかの技術で、五感全てを巻き込む「体験」ができるようになるのだろうが、本当は、人は想像力ひとつでそういう体験ができるはずなんですよね。そういう力を鈍らせてしまうのはもったいないな。
だって、何も使わずに遊べるなんて、すごいことだもんね。

また別の話だが、昔読んだ、女性が「女性らしさ」に縛られず振る舞うことを目指すアメリカの本で、練習として「ロールプレイ」の実践が紹介されていたことを思い出した。
日本でも行われているという報道は見たことがあるけど、自分自身はたぶんほとんどやったことがない。
人の気持ちを想像したり、自分の行動を変えたりするのに、確かに役立つ方法かもなあ。

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# by cathy_kate | 2018-03-13 20:07 | 第一幕 本 | Comments(0)

『経済成長なき幸福国家論―下り坂ニッポンの生き方』

経済成長なき幸福国家論 下り坂ニッポンの生き方

藻谷 浩介,平田 オリザ/毎日新聞出版

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劇作家・演出家の平田オリザ氏、社会・経済評論家(?)の藻谷浩介氏の対談に、後半は、「ダウンシフト」して生きることを提唱している髙坂勝氏が加わり、聴衆からも質問を募って展開されたトークをまとめた本。

「たくさん作ってたくさん売ってたくさん儲けてたくさん買う」という生活を転換させなければ、と言われるようになって久しいけど、特に東京ではなかなか実現していないのかも。
食べていける仕事と楽しめる遊びと安心できる生活が実は地方でも手に入る場所があるらしい。都会に住む人たちが気付いていないだけで。ということも、よく報道されるようになってきている。
でも、個人レベルでも国レベルでも「上昇志向」にとらわれている人は数多い。

「上昇志向は他人を蹴落とすこと」なのは本当にその通りで、「自分より下の人間」を作らないと自分の存在意義を保てない人のなんと多いことか。
彼らはそうしないと生きていけないと信じている、というか、無意識にそう思っているのだろうが、そう信じ込まされているだけなんだろうな。でも、一生気付かないまま終わる人もたくさんいるんだろうな。

東北大学の藤井昌彦氏が、仙台富沢病院で、「演劇情動療法」という認知症治療を行っているのだそう(p. 110)。
認知症では、計算や記憶のIQは衰えるが、それを補うように感情や情動のEQは高まる。
だから、認知症の人の「妄想」と思える行動に、理屈(IQ)で対応するのではなく、演劇(EQ)で応えて、認知症の人の言うことに共感して付き合う方が、認知症の人の気持ちが落ち着くし、介護する人も疲れないのだとか。
認知症の人は、頭で考えずに感じることで受け取るから、コンテンポラリーダンスを見て喜ぶこともあるのだとか。

認知症の人の認知の仕方を知って、それを否定するのではなくそれに寄り添う介護を、と最近言われているけれど、演劇でそれを実践しているのですね。
認知症の人たちが演劇的な活動をして楽しめるかもしれないし、介護する人が演劇の訓練を受けたりもするらしい。
平田オリザさんの劇団員がそういう福祉分野で活躍したりしていて、演劇人が、福祉や、教育の分野でも、収入を得ることがもっと可能になっていくかも、という。

認知症の人や障がいのある人が見ている世界が表されると、それが実は人間にとって根源的なものであり、それを見た人は芸術として魅力を感じる、という話も。

「成長した後は多様性がないと続かない」というのも、あらゆる分野で言われていること。
それなのに、均質性を求める習慣がなかなか抜けない場がまだたくさんある。
それぞれ見え方が違うだけなんだけど、なかなかそう認めたくはないらしい。
なんでだろう? やっぱり、序列をつけたいから??? 自分と違う価値観に脅かされるようで、自分が保てない恐怖を感じるから?

最近は新卒が就職しやすいご時世だから、「待遇、働きやすさ」にこだわる学生もいるけど、いったん就職しても、何がしたいかを考え直して会社を辞める若者もいる。
昔からいろんな若者がいますが、もっと自由になってきているのかも?
そうだとすると、いい方向に向かっているかも。もう若者でない人たちも(笑)。

美術(アート)も、最近は「ビジネスに役立つ」という観点の本が出ているようで、そういう商売も少し発展しているのかね。
この方向性は、学校教育に取り入れられていくかもしれない(?)演劇とはまた違う感じだけど。
文化とか芸術とかがますます「一般」利用されてきている雰囲気があるような?
これをチャンスと捉えて行動を起こせば、変革を起こせるかも?!(笑)

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# by cathy_kate | 2018-03-13 19:54 | 第一幕 本 | Comments(0)